刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

川崎市で起きた無差別殺傷事件から考えること

無差別殺傷事件が頻発している。

 

特に恨みもなく、それどころか会ったこともない相手を手にかけてしまう狂気の沙汰は、社会全体に充満している臭気のひとつであることに日本人はいい加減気付かなければならない。

 

例えばネットにおける言論の自由は暴走し、言葉の一方的な投げかけと、交わることのない感情の一方通行が加速している。ネットとは個人を満たしてくれる「公園」として機能している。しかし現実の公園では周りの人の目を気にしてしまうような行為が、ネットでは公園でありながら個室のようなものが存在し、誰の視線も介入も気にせずに済むスペースに引きこもることができる。それでいてアウトプットが容易な異空間が広がっている。これも現代社会に蔓延る臭いである。

 

公園について述べてみたい。

日本の公園はその意義とは裏腹に制約された空間である。それは中国に行ってからより強く感じるようになった。個人的によく思うのは、ウォーキングやランニング、キャッチボールやピクニックなどを楽しむ人々が憩う日本の公園で一人座禅を組んでいたら、周りにいる多くの人たちはその人を好奇な目で見るだろう。その人自身に大した興味もないのに、である。そして仮に座禅を組んでいるのが私であれば、周りから変な目で見られているかも、などと思ってしまう。私自身、公園で座禅を組む意味を持っているにも拘らず、である。良くも悪くもそれが日本人の感覚ではないだろうか。中国のある地方都市の公園は例え園内が狭くても人々がギッチギチになりながら、それぞれが好きなことを思い思いに行っている。日本人からしたらそれは人との距離感が近すぎるとか、周りへの配慮が足りないとか言われてしまうかもしれないが、当の中国人らは何も気にしていないのである。実際に危険を被りかねないような状況でない限り、彼らは我々のように他人に対して過剰反応しない。公園で好きなことを好きなようにし、しかし暴走しない程よさを心得ている。つまり公園という与えられた場を効果的かつ合理的に利用しているのである。私にはそれがとても心地よかった。

 

現代日本人は資本主義を良しとしながらも、その必要条件である合理化が下手である。長い歴史で醸成されてきた日本的道徳心と、極めて近代社会的な常識が相俟って合理化を阻害しているのである。私が訪れたインドや中国では例えば自動車を運転しているとき、クラクションを多用する。追い越すときや曲がり角に死角があって不意に車が飛び出しかねない状況などで、自分の存在や意思を伝える意味でクラクションを鳴らしている。クラクションによってコミュニケーションを取っているとさえ言える。日本でクラクションを鳴らす行為は、暗黙の領域でタブーとされている。それで他車(他者)とコミュニケーションを取らないまま自分勝手な常識を誰彼に当てはめ、この状況であれば対向車は止まってくれるだろう、などと安易に思い込み、止まってくれないと「この非常識者が!」と相手を罵る始末。クラクションのようなたった一つの簡単なアクションで回避できる軽重様々な日常的トラブルを、我々は「耐える」ことで抑えつけているのである。しかし封建社会を少なからず否定する現代人は、開放的かつ快楽的市場原理主義を目の前にぶら下げられ、その耐える行為に何の意義も見出すことができない。であれば耐えることは単なるストレスであり、日々積み上げられていく負担でしかない。

 

さらにやっかいなのは、日本には上記したようなストレスをうまく発散できない人が多いことである。その大半が正直でまじめな性格だということも強く明記しておきたい。そうしたストレスの「逃げ道」がないとどうなるか――今回のような無差別殺傷事件にも繋がりかねないのである。ストレス要因を自動車の運転で表現したが、日常のありとあらゆる物事においても根本的には同じであるということが説明できる。事が起きる”要因”は多種多様であっても、その”原因”は常に単純明快、そして「ひとつ」である。

 

私が世に強く問いたいのは、問題はどこにあるのか、ということである。事件を起こした犯人が悪いということは社会的事実であるが、犯人だけを問題視するのは危うい。近年こうした事件が多発しているのを見て、社会の在り方にこそ問題がないかを疑うことは自然ではないだろうか。茶の間で、オフィスで、井戸端会議で、事件に触れて「変な世の中になってきた」と何気なくつぶやく言葉から、実は問題の本質に気付いている人の多さを窺い知ることができると思う。

 

森の中に溜まったゴミが問題ではなく、そこにごみを捨てる人間が根源的問題なのである。そこに着目することが「政治」であり、政治家の仕事は、なぜごみを捨てる人がいるのか(増えるのか、あるいは減らないのか)を考えることにある。金を使ってごみを処理する程度の政策なら誰にだって思いつく。我々民衆に、臭いものには徹底的に蓋をするだけの無能政治家たちに血税を払い続ける余裕はない。上述したように暴走に駆り立てられてしまうほどストレスを抱え込みやすく、豊かだ先進的だと言われるもその実、陰鬱で人の身も心も追い付かない程に疾走する日本社会そのものが一度立ち止まり変わらなければ今回のような事件はなくならない。いくら法整備を進めても人心とは法で制御できるものではないのである。

 

 

別の稿で社会が変わるために必要なことと、何を変えるべきかを考えてみる。