刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

はじめに

飾らない日々を綴る

ではなく、

飾っていない日々の一瞬を綴る。

それは意識的な表現を超えた純度の高い自己実現といえる。

しかしそれゆえに「あなた」は一方的に言葉を受けることになる。おもしろくないかもしれない。





言葉の本質を考えてみる。



私に限って言えば、頭の中で考えていることは文字を介していないのである。
その証拠にすぐさま紙に書き起こそうとしても表現の仕方がわからなくなることがある。

確かに言葉として頭の中を巡っているはずのものが、外に生み出した瞬間、日差しの心地よさを知らぬまま地に落ちてしまう。


言葉は時として落ち葉になりうるのである。


そんな落ち葉をかき集めたようなブログなので、私はひとつのことを表現するために何度も書き直したり、推敲を重ね、別の記事で再表現を試みたりする。

いわば、ブログという白いキャンバスに無数の落ち葉を散りばめるアーティスティックな挑戦である。

アートであるがゆえ、ひとつの表現に終わりも完成もない。


そんな風に、私なりの芸術の道を歩んでいく。