刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

食品偽装から見る日本の体質

熊本におけるアサリの産地偽装問題が衆目を浴びた。

 

相変わらず正義の立役者になりたがる報道機関と政府の厚顔無恥さにあきれ果てるのは私だけか。

 

 

これまでも社会問題の度に事の正否を問うただけで何か好転したことがあっただろうか。

 

周知の通り食品偽装はこの20年間だけでも枚挙に暇がない程に各地で乱発し、その度に食の安全云々と論うものの、世間は時世時節の信者よろしく忘れてまた新たな活字に飛びつき、正義の立役者たちも諸悪の種を大事に育てて次はいつその芽を摘み取ってやろうかと都合のいい時期をただ窺い続け、それまで放置している。

 

 

肩を持つつもりはないが、はっきり言って熊本はさらし首にされたようなもので、別に熊本のアサリでなくてもよかったはずなのである。

 

海外で生まれ日本で育てた家畜が国産肉と表記できてしまうのは、法律でその権利が保障されているからで、疑念の余地は十分にあるが、それがなぜ槍玉にあげられないかといえば、その「構造」を追及させたくない正義の立役者たちに守られているからである。

 

 

その「構造」に切り込んだ、珍しく見応えのある記事があったので紹介する。

 

アサリの産地偽装はなぜ繰り返されるのか? ~みんなが幸せになる産地偽装のカラクリ~(勝川俊雄) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

この文章からは問題意識を注ぐべきところが1か所に留まらず、また物事が表層だけでなく目に見えない根の果てしない広がりから成り立ち、繋がっていることを理解している稀有なる人物だということを窺い知れる。

 

学者がここまで問題の根底を掘り下げ、質そうとしているのは稀なことで、大抵はその追及のどこかで忖度という名の「自制」を課してしまうことが多いのだ。

 

在野の無頼派こそ誰に阿るでもなく純粋な眼を持ちうると思い、権威と距離を置き続けたことも悪くはなかったが、大学をやめたことの唯一の後悔である、「唾棄したいほどの違和感に対し、その違和感の中で向き合うべきだった」ことを回想させるこの記事に、多少胸の空く心地を得た。

 

 

それはさておき、この記事で重要なことは、我々消費者が自身の生活に密接なはずの事の背景に対して甚だしく無知であり、しかも大して知ろうとしないその姿勢を言外に非難していることであり、また面白いのは何も知らないままで過ぎれば皆幸せだとも言っていることである。

 

つまり我々は常に正義の立役者たちに翻弄され、あるいは手玉に取られ、我々の細やかな幸せすらも彼らに左右されてしまう無力な「愚民」であることにいつまでも甘んじているということを皮肉り、穿ってみればいら立ちさえ感じさせる内容にもなっている。

 

大抵の情報ならネット環境次第でいくらでも得られる時代にあって、人々は自分都合で興味のあるコンテンツのなかだけに「引きこも」る性質があることを私は度々指摘してきたが、それはネット環境の有無や操作の得手不得手を詰る以前の問題として、人間性の前提的な「情報弱者」としての一面を表すものである。

 

そこで私は、ネットという極めて都合性の高い情報源は汎用性にさえ資するにも関わらず、テレビという媒体がしぶとく生活の一部になり続けている理由を垣間見るのである――生来的な情報弱者たる我々に最低限度の社会時事を手頃な容量にまとめて報じてくれる全自動情報発信機は、その情報が例え都合よく「切り取られ」ていても「嘘」でさえなければ「社会的」には有能な情報源であり続けられるのだ。

 

 

今回の食品偽装に関する各社の報道の仕方はやはりまずく、馬鹿の一つ覚えのように偽装はいけない、との論調に終始するこの日本社会はどこまで幼稚園なのだろうか。

 

 

人々にとって数ある情報の一「選択肢」でしかないこの記事の洞察的な言及が、根本的な情報弱者たちに有無を言わさず情報を浴びせる全自動情報発信機からの提供にさえならないようなら、我々は自ら民主制を遠ざける愚かな民であり続けることだろう。

 

また、それほど情報機関とは民政のあり方に大きな影響を与えうるということでもある。