刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

紡ぎ出すことの苦しみ、抜け出すことの安らぎ

私の稿は極端な言論ばかりだと思われるかもしれない。

事実、言葉というものが真実を表し得ない「道具」である以上、言葉を使えば正か否か、右か左か、貴か賤か、のような二極的表現に流されざるをえないのである。

あるいはその前提を踏まえ、表面的な感情や言葉尻にばかり囚われず言いたいことの「軸」を捉えてほしいとの勝手な望みは拭い去りがたいのだが。


だから私は言葉や安易な表現でなく実践を重んじ、その姿勢に捉えた本質を体現することにしか興味がなく、ゆえに知識ばかりに偏り、又それを得意気にひけらかし敢えて対立を煽りながら勝った負けたの自己優越に囚われ続ける現代人と距離を置きたいのである。


しかしながら既に上記の文に現れている「矛盾」の通り、冷静に自分の文章を眺めてみると、私のなかにもはっきりと「現代人の血」が混じっていることに気付く。



この発見は今に始まったことではない。




むしろそれに苦しみ続けた人生と言ってよい。







真実とは、「今」にしか存在しない。


言葉や絵画、音楽、あらゆるもの全ては人がいくら今を表現したと主張したところで、人の内側から外界に発せられた時点でそれは最早過ぎ去った事実でしかないのだ。


では「今」とは表現しえないものなのかといえばそうではないのだが、とくに現代では他人が自分の捉えている「今」を見ることはまず不可能で、それを可能とするのは中庸的な感受性のなせるところなのだと思う。

つまり受け手の問題なところが大きい、ということは現代の芸術観にも通じるもので、特に受け手側の自己都合的な「愚」の蔓延が表現世界を偏重的に歪め、表現側と受け手側の心の交流で開く豊かな世界がどちらかの一方的な「押し付け」で狭く苦しいものになってしまっている。




私は20歳の頃からそのことに苦しんでいた。


私の考えは人の普遍的理想を実現するための正しい思想であると信じ、それをどうにかしてこの浮き足だった人の世にぶちこみたかった。


方法はいろいろと試し、それぞれでそれなりにのめり込んだが、のめり込むにつれて自分のなかに「偏り」を見つけてしまう。

すると自分だけでなく、私の表現を受け取る人にも都合よく受け取りたい何かが具体的に存在していることに気付く。


そのなかで行われる表現を通した心の交流は、自分にとって都合の悪いもの、嫌いなものを徹底的に排除した、誠に居心地のよいご都合世界でしかなかったのである。



ニュースなどでスポーツ選手にインタビューする記者に、こう答えてほしいという意図が丸見えな「クソつまらん」質問が多いと思うのは私だけではないだろう。



そのような極めて「バーチャル」めいたご都合世界の創造に腐心するのは何も現代だけの特徴ではないが、今は化石燃料を効率的に熱源としうる技術があるため、そのバーチャルへ向かう加速度的な時代遷移が人々をさらに「阿呆化」させ、ありえない世界を夢見させてしまう。




私はとにかく隔離的なバーチャル世界から逃げたかった。


だから大学を離れ、言論から離れ、ギターから離れ、社会活動から離れ、人から離れ、そして旅に旅を重ねて逃げ惑った。



人に対して自己を表現する、つまり今という生命体としての本質を、何かを媒体にして「分かち合う」ことなど不可能であると先に気付いてしまった「不幸」が私を逃避行に駆り立てた。











だが、これがいわゆる「転換期」というものだろうか、最近はその苦しみから距離を置けている気がする。


近頃の私は今までにないほど「快活的」といえる。


その要素はいくつかあるかもしれないが、ひとつだけはっきりしているのは現在私の活動全てには毛ほども目的意識がないことである。





…「毛ほど」は言い過ぎかもしれない。





だがそれがないだけで、何をしても誠に心安らぐ思いで日々を過ごせる。


目的意識をもつことは一般常識的な最良であるだろうが、私はそれを持つことで過去の自分より大して成長していないなどと比較の連鎖に苦しむだけであった。


目的に向かって汗を流し、喜びになればそれもいいが、私のように苦しむだけであるのなら、いっそ目的など捨ててしまえばいい。




そして、こうも思う。


例えば人が私の武術鍛練を見て、それが何を意味するのかわからなく、「それは何のためにやっているのか」と聞かれたとき、「さぁ、意味など考えたこともない」と素直な心で言えたらいいと。


意味や目的、未来の理想像に囚われない境地から初めて足裏で大地を感じることができ、そして呼吸のなかから自己を見出だす、まさに「今」というものが表現できるのではないだろうか。