刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

マウントを取ることに、何の躊躇いもない時代

下記の記事に現代に蔓延る病魔が見えるので、記事内容に対する意見ではないが、思うところを述べたい。

https://news.yahoo.co.jp/articles/c4fc68eefd958bba519a85be034db33bd567a7d0


ここで言う大人たちの思慮浅さに辟易とする。

彼らの批判のほとんどが言論の交流を望まない一方的なものとなっているため、熟慮を著しく欠いており稚拙甚だしい。

事実、「子供騙し」にすらなっていないことは恥ずべきである。




嘆きや批判より発想に活路を見出だす子供たちに対し、発想や提案へと及ばぬ思考の怠慢を棚に上げ、浅はかな批判を軽々しく口にする呆れた大人の跋扈する現代は誠に愚かしい。




批判は簡単である。

所詮、人の考えうることに完璧などないのだから、粗探しはさほど難しくない。

感情的で一方通行な表面的批判に終始するのではなく、その発想の足りないところを補いうる理性的な批判を、大人としてはすべきではないか。

それが誠に理性的であれば、もはや批判が拒絶的でなくなり心の通いあった交流になるであろう。




マウントをとる、という言葉が広く使われて久しいが、いい大人が自己満足でしかない勝った負けたの空想勝負にばかり心を砕くのは見苦しいことこの上ない。

しかし、本来ならば他者との激しい揉み合いの先でマウントはとれるものなのに、ネット上では陰から寝首を掻くかのように容易く揚げ足を取り、その批判の整合性も客観的に検証せぬまま言いっぱなしでマウントを取ったつもりになれてしまう。

他者と衝突することもなく勝手に優越を貪る現代はやはり病的である。