刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

ひとり寂しい夜に

今私はとてつもなく長いトンネルに入り込んでしまっている。

今、と書いたのは、恣意的な自我がそう思い込みたいだけで、実のところ随分長いこと出口の見えない道をひたすら進んできたのだーーと書き出してみると何やら文学的知見が展開されそうだが、この稿においてそんなものはない。

みじめったらしい自分に対してついに直視できなくなってしまっただけである。

自己肯定感ーーこの言葉が常として私の重荷となってきた。
同時にこれほど人生に必要なものは他にないのではないか、そうも思ってきた。

概して自己を肯定できない民族の中にあって、さらに磨きをかけたような卑屈の塊とでも言えそうな私だが、一体いつどのようなきっかけでこうなったのかーーそれら時々の記憶の点を線でなぞれるほど、この身は鮮やかに覚えている。

突発的なものではなく、長い歩みの中で徐々に形成されていったのだ。


私は私の人生の中で何一つ誇れるものがない。
「誇り」というのもまた長い道のりにおいて醸成されていくものであろう。

その最たる例が仕事、生業だ。

が、私は10年前にそれを否定した。

ーーなぜか。

私の目に映る大人たちは自分の業の成熟度にかまけ、その仕事以外では醜態を晒すことが多かった。

たばこをポイ捨てする、ベロンベロンに酔っぱらう、ギャンブルで金をする、異性と不貞を働く、暴力を振るう、など。

だが彼らにすれば、それは本心としては肯定しうるものであった、ということが今ならわかる。

社会や他人からは非難されようと、彼らには醜態を晒さずにはいられなかった理由があったのだと、今なら寄り添える。

しかし醜態を全否定したかった当時の私は、彼らが示した道を拒絶し自らの道を求めたーーつまり、生業に囚われず自己を確立し、立てた志を尽くす、という道を。

ある意味ではそれを証明する旅を続けてきたわけだが、その旅すがら選んできたつもりの道は始めから、迷い込んだ長く暗い一本道にすぎなかったのだと気付いた。


もはや私は社会との明確な接点を渇望せずにはいられない。

社会性が欲しいーーそんなことを考えようとは、一体いつの自分が想像できようか。

だがその変容こそが「30歳になる」ということのようだ。


私はすっかり年齢に囚われてしまった。

一度は立てた志に適っていない我が現状を省みずにはいられないのだ。

すると暗い道のりで微かながらも心の支えとなった志に灯る明かりが、今ではカタストロフィーの灯のように背後でちらついている。

もう前を照らしてくれる支えではなくなってしまったのだ。


振り返って人生を猛省したいーーだがそれを行動に移した瞬間、唯一の我が拠り所であった「物事の原理とは何か、それを知覚するために本質を洞察する」という一念すら失ってしまうのではないか。

もはや後ろを向くのも前に進むのも怖くなってしまった。

そんな自分を殺してしまいたいほど憎む。

ただ、こうも思う。

世の中にも道半ばにして志を諦め、否定してきた世界に参画することを是とした人々の転換期というのも「30歳」だったのではないかと。


それは情けないことなのかーーいや、そうは思えない。

醜態を晒さずにはいられなかったそれぞれの業のプロフェッショナルたちのように、ただ弱い存在たる人間のかわいらしさとして、これからは愛していきたい。


では私に対して私は寄り添っていけるのか

ーーわからない。

我が身のかわいさゆえに我が身を否定し続けたいきらいが、実は私の中にある。
私が抱える数多の矛盾の中でも一際受け入れがたいものだ。

それも個だと受け入れる道もあるだろうが、果たしてその「個」は社会の容認に適うものかーー30歳を経て考えるのは「社会性」ばかりである。

その自律の停滞した先にある承認欲求とは、誠に恥ずべきものだという考えが拭いきれない。


自分に対してこんな様子では、結局寄り添いたいと願った人々に対しても時として嫌悪を吐き出すことになるかもしれない。

ーーこの頭の痛みは死ぬまで消えないのかもしれない。


ーーまた、長くも短い寂夜がやってくる。