刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

教育の意義

オーストラリアで川に浮遊するプラスチックなど人が捨てたゴミをネットで回収する低コストな方法が注目されている。
http://netgeek.biz/archives/140958?fbclid=IwAR0wqpPrOd_UIcewTP2HGnkDNKVyD1Zp08O2-uccAW6mEnpsMdAFblc7oVM

このコストを抑えて環境への負担もない方法に衆目が集まるのは当然であるが、屁理屈な私はこう思ってしまう。そもそもゴミを捨てるような人間を減らすことの方が大事である、と。

それは人々の意識や価値観を変えるということであり、その手段は教育である。

問題を根本的に解決できていないことに気付かなければならない。人がゴミを捨てる習慣を持つ以上、ゴミは出続ける。いくら低コストと言っても金はかかるし、その金はどこからでているのか。人々がゴミを出さなければネットを設置する労力も時間も費用も無用である。そういうところにきづけるところにまで社会を育て上げなければならない。今の世界は、いくら先進性を説こうとも未熟であり、幼稚な社会でしかないということは自分のいる場所の周りを見渡したって気付けることなのだ。

その未熟な社会を育てる手立てが教育だと思っている。ただ、それを目的にしているわけではなく、結果的に社会は熟成するもの。教育はいついかなる場合でも物事の原理を照らすものでなければならない。