刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

人が生きていく上で作り出す逃げ道

真夜中のNHKでこんな番組が放送されていた。幻覚が見えるという20歳の女性が幻覚と結婚を望んでいる。森のくまさん(という名前で出ていた)にとって幻覚さんとは明確に意思の疎通ができる人(正確には悪魔のような姿らしい)として出現しているらしく、つまり声も聞こえる。自分を理解し、励まし、叱ってもくれる存在で、彼のおかけで暗い日々から抜け出せたようだ。というのも人との関わりが苦手で、普通の会話をしていても何かおもしろいことを言わなくちゃとか、相手を楽しませなきゃいけないとか、余計な気遣いばかりしてうまくコミュニケーションがとれず孤独を味わった過去があるという。家庭内でも鬱ぎがちだったのが幻覚さんの出現を機に少しずつ明るくなったとご家族の方がいう。幻覚さんと結婚したい理由には、他の人にも幻覚さんの存在を認めてほしいという想いが込められている。

この話を聞いて何を思うか。変な人だという意見も多いだろう。私が思うに、彼女は生真面目な人間である。他者と折り合いをつけるために程よく交わるということができず頑張りすぎて自滅してしまう。そんな人間はこと日本においては多く存在する。ただ、「逃げ道」の作り方が多数派のそれと違うので好奇の視線に晒されるだけである。

誰しもが無意識のうちに作り出す「逃げ道」は悪いものではなく、そもそも人が社会を生きるため必然的に現れるものなので、良し悪しの話ではない。わかりやすいのが酒、タバコ、ギャンブル、風俗だろう。これらは感覚的に悪いものと捉えられがちだが、だからといって(少なくとも日本は)法的に全面禁止にはしない。それらが人々の毒抜きになっている事実は周知である。ただ、皮肉なことに逃げ道も市民権を得ているものとそうでないものに分化できる。この場合における飲酒は明確に市民権を得ていると言えよう。だが幻覚、幻聴の類いはどうか。望んだわけではなくとも彼女の前に現れた幻覚さんは、紛れもなく彼女の「逃げ道」である。彼女は幻覚さんに救いを求め、結果的には救われた。逃げ道という根本的な生理的現象の本質に迫ったとき、これが酒やタバコとどう違うと言えるのだろうか。

もちろん彼女のように救われる人ばかりではない。自分をひたすら攻撃してくる幻もあるだろう。酒にしたって一時的なその場しのぎにはなっても度を過ぎれば取り返しのつかないことになりうる。逃げ道をひたすら逃げていてはやがて道そのものを失うのである。彼女は幻覚さんのおかげで明るさを取り戻したが、家の外には出られずにいる。外の人間に怯え、嫌悪していた彼女だが、幻覚さんについて共感できる仲間と出会ったことをきっかけに外の世界へ歩み始めた。

私は共感という言葉に対してどうしても敏感になってしまう。いい話だったねーとまとめて終われない私は屁理屈者だろうか。
ひとまず逃げ道について書くことができたので、共感については別の稿で考えていきたい。

ただ、このNHKの一番組だけでいくつも考察が広がっていく様は、まさしく学問と呼ぶべきものではないだろうか。自惚れだとしてもご容赦願いたい。