刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

どうやって生きるかわからなければ、どうやって死ぬかを考える

自殺を考えてしまう人は、周りの大人たちがよく言うような「甘い人間」などではない。
強くはないかもしれないが、自分に対して「厳しい人間」なのである。

自身の状況を社会的な視点から洞察し、
且つ社会の中で自己を確立しようと努力する。
だがそれが叶わず自分の存在に社会的意義を
見出だすことができず、惨めな自分に耐えきれず、
人間をやめたくなる。
それは「真面目な性格」がそうさせているのだ。


人には必ずその人なりの「職分」というものがある。
それは社会的役割などといった上っ面の世界ではなく、
生まれてから死ぬまで、どこでどう生き、
何とどう関わっていくか、ということを、
その人の「人格」において全うすることである。

社会というのは職分を手段として選択する場でしかない。
本来であれば職分に良し悪しも、貴賤も右左もないが、
社会に生きるため選び抜かれた職分とは
各々が正しく、各々が間違っているのだ。

だが、多元的な社会では「人格を全う」することほど
難しいものはない。
自己の人格を理解し、あるべき自己の追求の結果、
何かを失うことで得られるものがある。
それを納得できる人間と、後悔し苦悩する人間とがあり、
前者は自らを成功者と呼び、
「失うことでしか得られない」ことを
さも真理のように豪語する。だが考えてほしい。

 つまり人格を全うしているか、ということを。


私はそれを今自らにも問いたい。元々空っぽだった私の
唯一の熱源たる気力まで底をつきそうな現在、
社会的客体たる非人格的自己への妄執を、
選択的職分の是非もなく、客体のまま流される盲従を、
まさに今、この身に是非を問わん。
それに時間や金がかかるのは仕方のないことではないか。

人格を全うせよ。

それが生きるということであり、
死ぬとはそういうことである。