刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

旅はよく人生に置き換えられるが、私の場合はそれと似て非なるところがある。


旅とは選択の繰り返しであり、


選択とはすなわち迷いから生じる行為である。


迷いなき旅は旅とは言えない。


旅とは迷うこと。


私の旅は旅を終えるための旅。


つまり迷わなくなること、が目的である。


どうすれば迷わなくなるのだろうか。






そのひとつの答えが原理の探求である。


大学を中退し旅を志したときに導き出した目標。


私の行動、思想の一切を


そこに向かって突き付けるために。




20代前半の志は今なお両肩に深くのしかかるが、


志も日が経ちすぎると腐ってしまう。


今の私はやっとこさその腐臭に気付き、


頑固なカビを取り除いている最中だ。


原理の探求などと言ってみても、


その曖昧すぎる目標のために


選んだ道を行ったり来たり、


そして寄り道しては振り向き自らの足跡を辿る。


そんな旅を繰り返すだけの日々。


十から一へと至る道は果てしなく遠い。


しかしながら今さら一から十、そしてまた一へ、の


道を極めるということも難しく思えるのである。




ただ、そんな旅の中でも原理とは、に対する


答えの欠片は見つけることができた。


それも思わぬところで、


全く想像につかない状況で、


ふっと舞うように降りてきたのである。


それは私にとって旅の終わりを意味するのだが、


しかし迷いは今なお渦巻いている。


今後の旅は


舞い降りた原理というものの現を


日常のなかにいかに見出だし、


感じることができるか。