刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

性暴力を扱う番組から考えることーー消費するばかりの物語について、末広がる教育について

今までなかなか表沙汰になりにくかった災害時における性暴力の実体。
阪神淡路大震災時も被害はあったが、まだまだ自己責任論が根強く、ゆえに相談相手もおらず、さらには世論が女性軽視をまだまだ問題扱いする段階ではなかった。
それでよく先進国だの日本人の民度だのとほざくな、と個人的には思うのだが、事態はそれほど変わっていないように思う。

ただ、SNSの発達により今まで声を発せられなかった弱者でも思いの丈を吐露する手段が出現し、少しずつでも変化の兆しは起きている。


そんなテレビではデリケートゆえに扱い難いテーマを、被害者が一切出てこないドキュメンタリー番組としてNHKが取り扱った。

「被害者が出てこない」
そのことで被害者個々人の「物語」という説得力を含蓄したリアリティーが見いだせないのではないか。

否、「物語」は震災時に起きた一出来事として扱われかねないーー全体の中の極一部でしかないと。

むしろ災害による避難生活には性暴力がつきまとうものだという、誰もが蓋をしたがる純然たる事実を否応なく顕在化させるために、性被害を見聞きした立場から、あるいは研究者らが集めたデータから、美談でも醜聞でもない「現実」を叩きつけるのは過ちを繰り返さないためにも重要である。

ドキュメンタリーとは本来そういうものではないだろうか。世間の感情に訴えるようなコンテンツばかりが横行し、物事の核心や本質は、いつも掃き捨ててはいないか。
それはメディアの責任ばかりでもなく、我々が無意識に快楽の追求ゆえに、抑圧からの解放ゆえに、感情を優先したがっている。

感情が先行するとこれが正しい、あれは悪だ、の二極化が進み、自他を分断することでしか自己を正当化できなくなってくる。そして同じような考え方の人間とだけ付き合うようになる。結果細分化した集団同士の小競り合いが国家という狭い世界で乱発する。それが現実だ。

そもそも法治国家は正悪を明確にすることが目的である。民主主義にしても例えば独裁化した社会主義を踏み台にして成り立とうとする。主義主張とは対立構造が必ず生まれるものであり、民主、社会、両主義の違いはつまるところ民衆の思考に対する緊縛の程度くらいのものでしかないのかもしれない。
そのように考えれば二極化してどちらを選択することは社会の宿命である。つまり目を向けるべきなのは個人の資質ではないだろうか。

独裁国家においては指導者への盲従が国民としてのモラルの全うである。
だが民主主義はそこまで思考を縛ることを強いず、ゆえに多様化たらんとする現代の最重要ニーズとなりえるわけであり、その本意は一人一人の違いも個性も認め合うというところから出発し、それを達成するために必要な資質をそれぞれが醸成していかねばならない。
国にそのような多角的に要求されるモラルを一つ提示することは到底不可能である。

だから教育なのである。

教育とは世界の要求する一つのモデルを養成することもできれば、一つに囚われない多様な感性を育むこともできる。
いわば教育の向かう先は、「先細り」か「末広がり」か、この二つに大分できる。

現代は後者に向かっているようで実は狭い世界で極めて個人的な安寧を築くことに「結果として」腐心しがちなのだ。

だからといってそのような傾向を責めることはできない。
なぜなら国家そのものに「末広がり」のような包括的人格が存在せず、人間の持つあらゆる煩悩の濃縮還元工場としてまやかしの繁栄を貪るという、連綿と続く「業」とも言うべき宿痾が存在するからである。
人類史を長い目で見れば我々を破滅へと向かわせる「時勢」は我々の手によって加速させられている。

この随筆自体が末広がってまとまりを逸している。
要はなかなか末広がりをみせない「物語」だけでなく、純度の高いドキュメンタリーを抱き合わせることが必要である、ということだ。
「物語」だけでは「消費」されて終わるばかりである。

日本人の政治の見方も消費されるだけの物語として視界に入れては過ぎていくだけのものとしている。

「末広がり」は万事における繋がりを感じることでもある。
政治も他人事ではないし、当然災害時の性暴力も無縁の出来事ではない。

個人的には、皆一様に避難生活で苦心するなか、自己を律することができず身勝手に欲情を暴発させてしまう男どもの何と気弱く、醜怪で不細工なことか。
さらにあろうことか支援者という立場を利用し、支援と引き換えに女性の身体を貪ることの何と鬼畜なことか。
筆舌に尽くしがたいとはこのことだが、持ちうる限りのあらゆる言葉で厳しく断罪し、惰弱すぎる男の存在自体を激しく軽蔑する。