刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

時には徒然なるままに

体調の悪化が著しい。

仕事中は日に数回ほど意識が飛び、ナルコレプシーかと疑いたくなるほど病的に眠い。

そんな中トラックで狭く交通量の多い農道を日長運転するのは正気ではないだろう。合間に畑作業も挟みつつ、である。

だが今年の早すぎる梅雨の到来に懐事情は湿り気を拭いきれず、貧乏暇なしを邁進する以外に道はない。


素直に人生の危機を感じている。

正直ブログを書く気力、体力ともに仕事の後では尽き果ててしまうのだが、生きた証を残すために少しでも言葉を捻り出しておく次第である。


散々人生と世界に迷い、ついに迷いの果てにさえ達せられなくとも、それもまた人の一生らしいではないか。

良いこともあれば嫌なこともあり、上り坂があれば下り坂もあると人は言うが、その比率は五分五分であるとは限らず人間的な感覚では推し測れないものがある。

我が身に降りかかる状況を二元的に捉えるのもいいだろう。

現状を正しく把握するために嘆いたり喜んだりすることも必要だ。

しかしそれが負の連鎖に繋がること甚だしきところに私は人間の業を垣間見るのである。

負の感情がさらなる負を呼び込み、抜け出すこと容易ならざる事実は多くの人が経験しているが、喜びや楽しみが新たな負の連鎖の一助となることを多くの人は知らないし、知ろうともしない。

ポジティブな状況はいつまでも続かない。逆も然りだが、人は自分が望む理想の状況にするため、あるいは営み続けるために苦行の道を進み続けようとする。

それを人間社会は称賛すべき努力と安易に認めがちで、一体いつになればその努力が報われるのかわからない人々の中にはついに死ぬまで報われなかった者も大勢いる。

努力の方法、方向が間違っていたかもしれない、助けてくれる人や環境がなかっただけかもしれない。

原因など推察し尽くせるものではないのにこの社会はどこか努力という言葉のみを有用にしたがる。

環境のせいにするなとか、周りのせいにするなとか、劣悪な環境を跳ね除け乾坤一擲を成し遂げた一握りほどの英雄たちを賛美し続けた歴史がより強者と弱者を隔てていく。

また一時的に強者たりえたとしてもそれを持続させたいと願ってしまったために身を滅ぼした者の多さも、ただのワイドショーネタではなく人の訓示として見る向きも必要ではないか。


確かに隣の芝生が青く見えるのは私にとっても事実だが、それは人間同士にのみ適用される比べ合いの結果に過ぎない。加えて比べる対象の味をそれなりに知っている必要もある。

私はこの比べ合いについてとことん言及しているのが仏教ではないかとも思っている。

他の宗教では原始思想を除いて少なからず比べ合う対象を欲している傾向があると見えるが、仏教において比べることは本質的に無用であると説く。

人は性悪の身として生まれ落ちるゆえにその一生を良き人として生きるように諭すキリスト教や、名そのものが平和を意味するイスラム教は平和を自利的に希求するあまり、自らの平和を勝ち取るために他を排除する理論の暴走に度々振り回されている。

仏教は性善も性悪もなく、また平和に越したことはないがその言葉自体に執着することもない。

つまるところ、仏教は人間のみを説く教えではない。
あらゆるもの全ては皆同じであり、姿形、性質に違いはあれど全ては繋がっており、ゆえに1つであるというのが「色即是空」の思想である。

あらゆる全てが備えている「仏性」というものがあるが、石ころや草花ひとつひとつに正悪など存在しないように、仏性を性善説として考えるべきではない。

すなわち「山川草木悉皆成仏」の世において正悪の是非も殺生の如何も本質的に存在しない。

あるのは「知足」を弁えた「分相応」な生き物の営みだけである。

例えば野生の動物たちは、自然のなかにあっては枯渇するほど食糧を貪ったりはしない。

それは意図的でなく長い月日をかけて築き上げた食物連鎖の絶妙な構造がそうさせており、土地に適応した種が食うも食われるも互いの維持に寄与し、あるいは危機に晒されれば進化を経て改めて適応するように程よく均衡を取り合っていることが結果としてピラミッド型で示される図に表れている。

自然界は食い争いを続けているように見えるが、それは個人にこだわる人間の見解にすぎない。

個体ではなく種として生きる生物たちは食われることも生きることであり、ひいては種が生きることになり、大風呂敷を広げればあらゆるもの全ての繋がりのなかに戻っていき、また別の姿の「仏」として顕現するのである。

個は滅びても種は滅びず、また種が滅びようと生命は滅びず。

この世に生を受けたと言うが我々は遥か太古から紡がれてきた命の「今」であり、また今を生きることは死後また別の姿で現れることの因果を約束するものである。

つまり過去も未来も「今」に帰結する。

今を生きるとは、過去も未来も一元的に生きることである。


その「真実」を万物に見出だそうとする試みが仏教ではないだろうか。


ーーと、この続きも書いたが全くまとまらないので限界のようだ。

徒然なるままに書いたのでそもそもまとまっていないのだが、気が向いたら続きになりそうな稿を書いてみよう。