刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

私は今を流れているだけである

生きること、死ぬことは、それぞれの人格を全うすることであると以前書いた。


日々の暮らしの中で、あるいは生計を立てる生業の中で人格はいつだって表現される。

日銭暮らしであろうが、生きるために汚れていこうが、望まぬ営みに嫌気が差そうが我々はその姿勢に我を見る。

隠すことなどできやしない。

それが「私」というものだ。

否定するもしないも「私」は変わらない。

ただ「今」を流れているだけである。

明日も、来年も、一分後だって「今」を流れるだけなのだ。

人格はいつも「今」に表れる。

我々に許されているのは、せいぜい今を愛することくらいではないだろうか。



そう書いていて、すっと胸が空くような感覚を得た。

そうか、今を心から受け入れる、か。


なんと妙な男だろう。

我が思想の「芯」を今やっと食ったといったところか。

昨日今日の思いつきではない積年の思想が実のところ今の今まで空論であったことが白日のもとに晒されてしまった。


なんとも嬉しい恥である。



今が明るく見えてくると、この体調の悪さも些細なことのように思えてくる。

今を生きるのに体の具合は大した問題ではないようだ。

明日や将来を生の前提にしているから体調が気になってしまう。


全てにおいて同じことが言えるのだろう。

そして初めて人格を表現することに迷いも消え失せる。


何をしたって構わないのだ。

躓き転んでも肯定の名のもとに私は道の上に在り続けられる。


道のりが険しく先が見えないことの不安、そこに立ち向かう勇気、実に唾棄すべき妄言である。

苦しい道を逃げずに進んできた英雄たちの冒険譚、誠にくだらぬ妄想だ。

そんなつまらぬ戯れ言を愛でることも人の可愛らしさであり、人としての豊かさでもある。

だが私はそのような万人受けする人格を表現する気は全く失せた。

道の上にいる、そう感じられる。私はそれだけで充分である。

転んで膝を擦りむこうが、逃げて恥をさらそうが、それも私なりの人格の表れにすぎない。

だが人格に貴賤はない。

自らを貴く思うことの賤しさ、それは誰もが自らの道のりを素直に振り返りさえすればわかることであり、どちらに傾くこともない自身の「尊さ」に初めて気付いたとき、同じように貴賤の存在しない他者の「尊さ」が見えてくる。


とはいえ、人の世は往々にして比べ合いや差別をもってなんとか自我を保とうとする。

そうした世界にあって、周りから奇異な人間だと避けられるくらいが私らしいのだ。



あぁ、この心地よさは一体どのくらい本物なのか。

生も死も今に感じられるこの境地、寝て覚めた後も、明日の日銭暮らしのなかでも再び得られるのだろうか。