刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

縄文時代とは①

全くもって私の旅は充実しすぎている。

お陰で記録はおろか記憶すら追いつかない。



旅はこれまでにも「楽しい」と思える場面がいくつかあった。

しかしそれは一時的なものであり、旅そのものを包括しうる感情ではない。

「楽」の性質は継続性に欠けるところにある。


翻って「面白い」というのは持続的な感情であり、また過程に「苦楽」を含有しながらも結果的に全過程を面白かったと言えることもある。

もちろん旅の途上で「面白い」と言えるならそれが一番よいのだ。


私は今、旅を面白いと感じ始めている。



さて、能書きばかりで稀有な読者にも飽きられそうなので、そろそろ旅の足跡を残そうか。




私は東北地方を巡っている最中である。

一部は過去の巡り直しもした。


つくづく旅は生ものだと思うのは、「再訪」こそが「面白さ」の尻尾を掴む意義深き行為であることが多いためである。

簡単に言えば点同士が繋がることであるが、例えば長野県星糞峠における黒曜石の発掘実態を見聞きし、後に青森県三内丸山遺跡にて長野県産の黒曜石が見つかったことを知り、当時の遠大なる交易の事実から両者の繋がりを感じることとは違う。

それは多分に表層的で、事実同士を繋げたにすぎない。


現代の学問に足りないのは、そこから先に末広がる根っこの奥底を覗こうとしないところにある。

私はその表層的事実から、縄文人の争いの実態や、祈りという行為の真偽、あるいは信仰の有無、果ては現代の社会問題など、一般的には直線的に結びつかないと思われそうな繋がりを直接洞察する。

仮説から検証へ、複雑な実証過程を挟み込み結論を導くような常識的学問体系は、証明の仕様がないものに対してはあまり意味をなさないことが多いように思う。

それは何かが遺跡から出土し、様々な科学的検証が行われて後「~に使われていたと思われる」との曖昧な結論にひとまず落ち着いたとき、科学的推理の信奉者たる多くの研究者などは現代的感覚から推論しようとする短絡さからも伺えることである。


何が言いたいかわからないだろうから、具体例を挙げると用途不明の出土物や装飾などを短絡的に「祈りの証」と捉えがちなところである。



祈りの本質を考える必要がある。


祈りの文化は農耕と共に発展したと私は思っている。

その意義を全て書ききれないが、

①目に見えぬ超人的な力への崇敬と依存
(自然の流れに逆らい、自らの願望を求めること)

②一集団における共同体意識の強化
(団結力を強めるほどその集団心理が個人を凌駕し、対外的には大なり小なり隔たりや差を敢えて作るもの)


括弧書きしたところは縄文期を考える上で重要であろう要点の一部である。


まず①について、農耕は~……