刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

社会的弱者から考える存在と意識 ~その2~

次は歴史的に福祉を見ていくと述べたが、投稿の時期を同じくして世間はある有名人の社会的弱者に対する差別的発言への批判に夢中である。

毎度のことながら問題の上っ面を撫で回しただけで大衆的な正義を勝ち取った気になる脳内お花畑な勘違い人間の巣窟たる社会の浅ましさに辟易としつつも、だからこそ弱者を取り巻く社会という環境について私が根本を質さねばならないと思った。


ホームレスの存在を否定したことが騒動のきっかけらしいが、正義感を振りかざして差別反対を公言する方々を含め、我々の暮らしそのものが無自覚ながらもホームレスの存在を否定している面があることを自覚せねばならない。


社会は経済水準を高めていくとともにその社会自体に清廉な印象を求めたがる。

例えば再開発と銘打って汚い貧民街がいくつ潰されたことか。

そしてオリンピックのような華やかな「非日常」が、社会の隅で煤汚れの中ひっそりと生きる人々の「日常」をどれほど奪っていったことか。

これは高度経済成長期だけの話ではないのだ。


関東地域在住の方なら東京都台東区あたりの「山谷」という地名を聞いたことがあるのではないだろうか。

私の好きなフォークシンガー岡林信康の代表曲「山谷ブルース」に歌われている通りの、金も資格も学歴もなく、あるいは様々な想いを抱き仕事を探して流れ着いた日雇い労働者たちが大勢暮らした仕事斡旋所かつ簡易宿泊施設群、通称「ドヤ街」がそこにあり、経済成長を実質的に支えてきた陰の立役者でありながら常に国の政策に翻弄されてきた地域である。

初の五輪に沸いた1964年頃には15000人もの労働者を抱え、開催に間に合わせるべく日夜ビルや高速道路の建設、新幹線の開設事業等の現場で血汗を流し、彼らの存在なくして経済発展も五輪の成功(おもしろいことに当時も開催前は戦後20年も経たぬうちに五輪などやっている場合ではないと反対の世論が攻勢であったが、航空自衛隊の戦闘機で大空に五つの輪を作って見せたり、経済効果の旨みもあって世間はいとも容易く手のひらを返した)もあり得なかった。

だが労働者たちの境遇はいつまでも「日雇い」であり、後世に語られるような事業現場をいくつ経ても事業が終われば「お払い箱」にされ、住み処と金銭の確保を繰り返さなければならなかった。

彼らを大いに利用しておきながら、世間が目標とする先進的社会の青写真には彼らやドヤ街の存在は描かれていなかった。

今回の五輪においても、東京駅や浅草などへのアクセスが容易な山谷地域を「観光拠点」とするため、加えて都合よく火災防止などを理由に据えて古い木造建築物を撤去し、新たな地域へと「再開発」された。

まだ3500人ほどは住んでいたにも関わらず、その一部は役所から突如として1ヶ月後の退去を「強制」された。

新たな施設の綺麗な壁に掲げられた施設の概要欄に「山谷」の文字を見出だせず、あるいは施設に踏み潰された幾万人の足跡を彷彿とすることも叶わず、そして我々はまた社会の不都合な歴史として抹消される事実の傍観者になろうとしている。


一度は訪ねてみたかった山谷、私はいつも変わる前の在りし姿に出会えぬ後手の旅を行く宿命のようだ。

コロナで世界へ旅立てなくなったことが示唆するように、変わった後の世界から行く末を洞察することが私の仕事のようだ。





話を戻そう。




我々の日常のなかにホームレスの非日常を読み取らなければならない。

私が10代の頃にはまだ、大きな公園ではブルーシートが特徴であったホームレスの住居が多く見られたが、行政の強制措置が働き今は全くない。

だがホームレスは絶滅したわけではない。

彼らはまたところてんのようにどこかへ押し出されただけなのだ。

しかし世間は徹底排除するかのように、巡視員によるある種の「ホームレス狩り」であったり、駅や公園のベンチの真ん中に手すりのような「障害物」を据えることで寝られないようにしたり、あるいはそもそもだがホームレスという呼称に社会の汚いはみ出しもののような印象を社会全体で長きに渡り作り上げてしまったことなど、綺麗で立派な公園やビルが建つほど、実は文字通り官民一体となってホームレスの「人権侵害」を推し進め、黙認してきたのである。


我々が理想的な燦然たる都市や社会を熱望するほどに、暗澹とした社会の裏側が路地裏で影を濃くする。

貧する者がいなければ富める者は存在し得ない。

これは真理である。

どこかの金持ちが金持ちたらんと欲するために、どこかでホームレスが生まれるのだ。

それが資本主義であり格差社会といえるが、我々が作り出す社会は時の主義主張に関わらず、必然的にそのような偏りをもって民衆を二分する。


こういう根本的な議論を、なぜ世間はできないのか。

人の揚げ足をとることにばかり夢中にならず、ホームレスが生まれない社会を望むことの方がよほど有意義である。


ーーホームレスの生まれない社会、それは富の公平な分配が基本となる。

だが世間の多くがそんな社会を求めていない。

口先では全体的な人権の重要性を当然としながらも、自分の権益が脅かされるようなら人権など二の次である。

蓄積しうる富の味を占めた農耕文明以降、今日に至るまで差別は豊かな社会なるものの必須要件であり続けてきたではないか。

社会という狭苦しい箱の中には、ホームレスは時代を問わずに必ず存在する。

清廉な社会とはホームレスがいないことではなく、彼らを受容しうる社会のことである。

豊かな社会とは皆がお金をたくさん持っていることではなく、公園や駅で寝ているホームレスを社会の外に追いやらず、自立のための方策を官民一体となって支援するゆとりのある社会のことである。


歴史上、最も幸福度が高く豊かだと言われている現代において、なぜ前時代的と言うべきいじめや差別はなくならず、そして弱者を受け入れるゆとりすらないのか。



それは豊かさを誤解しているからだ。


金や力があれば欲望が満たされると勘違いしている文明人はどこまでも貪り続け、際限なき物欲の奴隷として使役されていることにも気付かず心はいよいよ貧しくなっていった。

実際に品性を著しく欠いていたり、厚顔無恥で自意識過剰、他者への思いやりなき者が全時代的な競争社会においては優れた実力者である。

貧しい者のモラルは指摘したがるくせに、経済力のある彼ら実力者の派手な下品さは不問にする。


我々は不都合な事実を覆い被せた上で文明を謳歌し、また不都合が芽を出せば意識をそらし、芽を摘み取り、アスファルトを敷いてなかったことにする。

そのような社会の唾棄すべき腐った品格、及びこの豊かと言われる暮らしを成り立たせている数々の犠牲を直視できなければ、弱者に対する真の人権などありえない。




飛躍するようだが、私はやはり国連という包括的であるはずの組織でこの身を燃やすべきである。

学歴エリートたちに任せ続けた結果がこれだ。


本当の意味で「身を削る覚悟」が私にはある。

31歳を目前にして損をし、損を引き受ける覚悟ができたのだ。

そういう人間が牽引する世の中でない限り、弱者の人権など永遠にありえないのである。