刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

夢について①

夢について書きたい。


しかしながら世間一般的な「我が夢を語る」類いの話題でないことは、聡明なる当ブログ読者にとっては言うまでもないことだろう。

物事の本質を捉えるために常識的な視点をずらしてみるという試みとして読んでいただきたい。



「夢を現実にする」というような文言をさも健全なる諸氏の美徳のように持て囃すが、そのように肩肘張って叶えることばかりが夢の価値であるような風潮はただ息苦しいだけではないだろうか。


それも夢だとして、しかし私はむしろ叶わないのが夢であると考えたい。


ゆえに「夢は寝て見るもの」といった言い草は嫌いでなく、「覚めては弾けて消えるもの」と付け加えてもよさそうなもので、国や個人もその刹那なる「バブル」に度々囚われがちである。


とはいえ叶えるための夢に邁進する挑戦者をからかっているのではない。

そのような人らは目立ちやすく衆目を集めがちなために評価を受けやすいが、夢や希望ではなく今をただ懸命に生きているだけの人をこそ余さず愛でたいという想いが私にはある。


歴史上、その困苦たる境遇から生きることの本質のみを求めざるを得なかった国家のマジョリティーたる庶民は今を生きることに必死で、その必死さから土着的な実践的文化が開花した。

史実に明らかなる偉人たちは変革のきっかけを生むことはあってもそれは歴史上の点でしかなく、変革が形を帯びるためには名も残らぬ被支配層の連綿とした犠牲がなくてはならない。

家柄、権力、所得など、どの時代にも存在するピラミッド型階級社会の下層部は、わずかばかりの上層部が富裕であるための必然的な努力と犠牲を支払ってきており、それは民主化の名のもとに見えにくくなった今日でも変わらない事実である。


自分を含めたその下層部をこそ愛でたい、というのは国、組織、集団というのは下から個を積み上げていった結果であり、ゆえにそれら社会を洞察するには上から見下ろすのではなく下から見上げることが大事だという想いがあるからである。

しかもこの発想はやはり武術的でもあり、我々は大地という下からの支えがなくては動くことすら叶わないのである。


現代のように大多数たる庶民が実践しえない言葉や思考、方法論が跋扈し、それを為し得る極一部が自らのマイノリティーをひけらかし名実の満ち足りた暮らしを謳歌したがる利己的社会の浮き足立った不安定さを捉えなくてはならない。

同時に「支え」となっているところを知覚することは自らの芯を捉える「内観」と相通じるが、順序としてはまず自身が支えの上に芯を立てることであろう。