刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

夢について②

前稿にて「叶わないのも夢」と書いた。



確かに夢にまで見るものだから叶えば嬉しいが、叶わなくとも夢を見る、ただそれだけで心が豊かになることもあるだろう。



また何らかの影響で夢が果たせなくなることは、例えばこのコロナ禍において多くの人が経験したことでもある。




私もその一人だ。


おそらく私が社会的に身軽なうちに海外へ行くことはもう叶わないだろう。

ワーホリ、シルクロードサンティアゴ巡礼、世界を舞台にした民俗研究、数々の望みが夢として散った。

それでもふと、散った破片に想いを馳せる一時は実に心地よいものである。







夢に想うと書いて「夢想」という言葉がある。


私の縄文研究におけるテーマの一つとして「祈り」を掲げていたが、夢想と祈りはその性質において近しいものを感じる。


祈り自体は縄文期と弥生以降で意味合いが違うのではないかという持論があるのだが、それについては稿を改めるとして、祈りと夢想は空間的、もしくは現実的な制約を受けることなく自由に、そして対象を強く実感しようとする積極的な行である。









私の夢想の話をしたい。





会いたくても会えない人がいる。



それは亡くなった人もいれば、遠くにいる人、裏切ってしまった人、再会を望んではくれない人など様々である。



たくさんいるが、印象的な人がいる。




素敵な人だった。


あれほど一緒にいて楽しい人もいなかった。


宝物のように大事にしまっては時折取り出して懐かしむ私のように、その思い出が今もあなたの胸を温めてくれていたら、と願わずにはいられない。


正直に言えば思い出のままにしたくない。

新たな気持ちで共にまた日々を積み重ねていきたいと未だに思っているし、それが無理ならせめて話だけでもしたいのだ。




しかしそれは儚い私の「夢」でしかない。


人の夢とは「儚い」のだ。


叶わないからこそ、もう会えないからこそ、そして儚いからこそ、あの日あの時の思い出たちが夕焼けのような優しさで裸の心を包んでくれる。


「美し」と書いて「かなし」と読むように、まこと美しさとは悲しさの裏返しであり、悲しみという純粋さが心を真心として受け止め、温めてくれるのだ。


それを「愛し(かなし)」と呼ぶのである。


その愛というものを愛せるうちに気付けられないから人は「可愛い」のだ。








図らずも最後は「愛燦燦」のような稿になってしまった。




じきに年が明けてしまうので、このとんでもなかった一年を自分なりに締めくくっておきたかった。

綺麗にまとめている感じが少々気に食わないのが私らしい。


また、私らしくないのが来年は盛大に面白いことを企画していることだ。


その詳細は追々として、できる限り日々を稿にしてまとめていくつもりなので、来年も稀有な読者の耳目に敵う内容を書いていきたい。