刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

②自己を内観する ~歩~

歩くことは思考の源であり、また思想そのものであるという思いのもと、絶えず歩き続けてきた。

足の感覚にも着目し、漫然と歩くのを嫌い、どこで何をどのように踏んでいるのか足で気付くことを狙って底の薄い履き物を選んだり自作もした。

果てはアスファルトに覆われてしまった大地の記憶、先人の足跡さえ足裏で読み取ろうとした。


それらの行いは無駄ではなかったが、歩くことに囚われ「芯」を捉える意識が疎かになっていた。


この頃その芯を捉え始めてきたのではないかと自惚れている。


その要因はやはり「ゆとり」という言葉に収斂されてしまう(あえてゆとりという言葉を用いているが、また機会があればその理由も述べたい)。



今まではただとにかく歩いていればよい、とまでふざけてはいなかったが、しかし単純な手段と化していた事実は否めない。

それが最近、「ゆっくりと歩く」ことができるようになったのだ。


これは全く簡単なことではない。


太極拳のゆったりとした動作をその特徴とする見方は世間の多勢を占めるが、ゆったりする所以を正確に知る者はほぼいない。

あれは呼吸によって身体を導いているのだ。

だが呼吸の要求に耳を傾けることがいかに現代人にとって難しいか、歩くことの難しさと全く同じである。


極めて社会的な忙しさや焦り、またそれらが習慣化することで定着する性格など、自然界における「不純物」をたっぷり抱え込んだ人間の自我が、芯を捉えて歩くことや呼吸で導く身体操作を困難にさせていく。

私がまさにそうであった。

武術もヨガもそれら不純物を取り除くための行法といって過言ではないが、中医学において人体の構成要素は「気、血、水」とされ、呼吸を体の隅々に通すことは血も水も行き渡らせることに繋がる。

すると体が大地と明確に繋がり始め、武術はその繋がりを利用し少ない力で大きなものを動かす、これを「四両八千斤」という。



武術を引き合いにしてみたが、却ってわかりにくくなっていないか。



芯を捉える、呼吸で導く、これらはいずれも「自己を内観する」ことの同義である。



歩きについて見ていく。



毎度引き合いに出して申し訳ないが、現代人は今や男だけでなく女までもが「がに股」である。

それは底が厚く弾力の効いた靴が要因で、また靴先のほとんどが反り上がっていることから足指が活かされない。

硬いアスファルトでも砂利道でも痛くも痒くもない靴が当たり前、転じて自分の意識がどこに向いているのか気付かせる余地もない、そんな漫然とした歩行事情ががに股歩きを加速させる。


内面的な事情で言えば、男はいつの時代もそうであったように見栄を張りたがり他者から与えられる地位や名誉に踊らされるなど意識が外にばかり向けられ、膝が外に向くがに股という身体操作に表れる。

女性は男と違い外界に対する自制心があり、また往時にあっては時代の要求でもあった「恥の文化」の担い手として毅然としていた。

余談だが人間の理性的規範の結晶たる武士道は女性の中で完成を見たと私は強く思っている。

例えば恥を晒すくらいなら死を選ぶその覚悟は多分に男より強かったであろう。

その激烈たる意識を相互の尊重や家庭の安寧など内側に向け、自身の大仕事にかまけて粗相を犯す男たちを自らの姿勢をもって窘め、また支えた。

こと貞操観念においては恥の文化が相当に染み付いており、その着脱の容易ならざる和装を見てわかるように、素肌は気安く見せるものではなかった。

その封建的な自制意識が却って性への深い関心と想像を育んでしまったことは江戸時代の流行本や好色本(井原西鶴の『好色一代男』などは現代的に甚だ突飛な内容だが、それも当時の社会を生き抜くための娯楽であった)などからも窺い知れるが、いずれにせよ女性の内側に注ぐ意識の表れとして「内股」なる身体表現が形成された。

つまり時と場合によって外聞への意識を使い分ける聡明さがあった女性が、現代では多くが自分をいつでもよりよく見られることを望み、その自己顕示欲の塊を常に世間へ晒すことに臆面がない。

その結果のひとつとして、がに股とホットパンツの組み合わせが特に象徴的と思うのは、肌を過度に露出させるなど意識が外側に向きすぎた結果、自身としては承認欲求を満たしうるかわいい格好をしているつもりが、実際にはがに股歩きという不格好に陥ってしまい、さらに素肌ゆえにがに股がより際立ってしまっているところであり、またそれに気付いていないのも多少哀れに思う。

とはいえ元来馬鹿な生き物たる男どもは、がに股とかそんなことはどうでもよく性の対象たる女性へのさらなる欲情を掻き立てんがために喜んでその「素肌のみ」をありがたがり、また残念ながら私にもそのような癖はある。

あるいは女性はそういう男の浅ましさを利用し自身の欲求を満たしているのかもしれないと考えるとやはり女性は利口なのだが、しかしながら内観するという「賢さ」はとうに捨ててしまったようだ。




さて、では歩くことにおける内観とはどういうことか。


歩きに限ったことではないが、我々の骨や関節、筋肉は動作ごとに求める動きの方向が存在する。

つまり方向をありのままに見定め、人体の構造を感覚で理解することを内観すると私は表現しており、負荷の少ない自然な動作を体現することである。

それはあたかも流れ落ちる川の水が作為なく地形に沿って進み、時には高低差をもって岩を砕き、また深く水を湛えて山を削るような流麗さ、しかし川はいかなる状態でも絶えずして流れている。

自然界というのはそのように無駄も無理もない力が働いており、それをこの体で表現するというだけのことである。


だが現実的に歩くという人間の基本的かつ初歩的な動作においてさえ過剰な「力み」が生じている。


我々は社会の中で「不自然の学習」を経て無駄なき自然動作を無意識のうちに否定し、人体の構造を平面的な解釈で完了させ、本質的に理解することを一部の変わり者のみの「奇行」とした。


不自然な学習の代表例はラジオ体操であろう。

その機械的な動作には体の各部位を「伸ばす」という発想が強いが、実は伸ばすのではなく「緩める」ことが何より大事なのである。

あくまで機械的に筋肉や筋を伸ばそうとすれば「伸長反射」という体の防衛反応が起こり、余計に体を固めてしまう。

伸ばすような動作の中にも緩める意識を注ぎ込むことが内観することに繋がり、それは「呼吸」が体に及ぼす作用を実感することである。


前述の通り現代人は外に意識が向きやすく、爪先が外旋したまま歩くので足の外側の筋肉が凝り固まり、さらに悪循環に陥る。

それを足裏から「根を張る」感覚で内も外もない中性なところで芯を立て、足が全体的に緩んだ状態(勘違いされることが多いが、全く力が入っていないという意味ではない)にする。

もう少し踏み込んだ説明もしたいが、かなり武術的な解説になるので気が向いたら工夫を凝らしてまた書こう。



非常に不可解な文になってしまったように思うが、少しでも今稿の「芯」を捉えていただけただろうか。


連載のはずだった論題の2回目をかなり引き伸ばした。

もちろん、忘れていたわけではない。

稀有な読者の「体を意のままに操りたい」との要望に答える今連載は、様々な視点から心と体を捉える試みである。