刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

一人で死ぬべき、と言い切る社会について

無差別殺傷事件の犯人は他人の命を道連れに自害した。そのことに対し、犯人を突き放すような言葉が発言力のある著名人から多く吐き出されている。一人で死ぬべきだ、と彼らは言う。現代はついに互いに関わり支え合おうとする地域社会を打ち壊し、他者に思いやりを持たない世になってしまったのか。そんな世の中をどうとも思わず、金や地位で己を守ろうとし、自分とその周りだけで生きていると思い込んでいるような人が今の日本をリードしているのである。

 

ネットの普及で世界が広がったように思えて、その実自分に都合の良いものを断片的に抽出し、快適な狭い世界を作りかねない現代では、誰しもが引きこもりではないだろうか。自己責任論にしてもそこにこだわる人は自己責任という世界に引きこもっている。引きこもっているうちは外のことが見えずわからないものだ。現代社会は多様性という響きのいい言葉のみを甘受してしまったがだめに、かえって人々は多様に分化したカテゴリーのひとつひとつに収まってしまった。同じカテゴリーに生きる人たちと仲良くできればそれでいいのであって、他のカテゴリーまで認識するのは面倒なのである。つまりは嫌いなものをとことん自分の引きこもりスペースから排除することが可能だという、そんな一面的でありえない世界を作り出せる今の世の中だから人々の繋がりは消え、他のカテゴリーに過ぎない地域社会は死にゆくのである。だがそのご都合主義の弊害の産物こそが自分と自分の周り以外に関心も救いの手も持たない腐った社会ではないか。

 

引きこもりに対して支援する社会の仕組みが必要と言っているが、これは地域社会が機能していないことを意味する。この社会の仕組みというものを金が流れる仕事という形にしかもっていけないところに現行社会の限界がある。支援といっても行う人からすれば仕事上の業務でしかなく、例えば引きこもっている人を全く知らない担当者が思いやりを持って寄り添ってあげることができるだろうか。それは業務上の支援者にとってもかなり負担になることで、リスクを感じたときにはすぐさま自己防衛に走りやすい。リスクを負ってでも見ず知らずの人を助けたい、などと容易に言えるものか。虐待を受けた子供が相談所に直訴しても救ってやれない相談員、ストーカー行為を受け恐怖を感じた女性が交番に駆けつけても法律や制度を言い訳にして見殺しにする警察官、生徒からいじめを告白されても面倒事を押し付けられたような顔をする教師などは腐るほど存在するし、ニュースにもなっている。バカみたいに専門家を持ち上げる昨今において、そのエキスパートたちは肝心な時にクソの役にも立たず、エキスパートでないにしても職務に掛かる責任は全うすべきものであるがその責任意識すらないのか、専門家にせよ公務員にせよ金のために仕事をしているだけか。それが仕事でやっている人たちの限界である。今の世が本当に求めているのは、取り締まりの強化でも専門家でもなく、つまるところ単純にそこいらを行き交う人々の温もりだと断言しよう。優しさは誰もが持っているもので、勉強して修得する必要はない。ただ、現代人のようにどこかに置き忘れたり、あるいは意図的に置いてくることもある。私などは優しさを持つのではなく、優しさそのものでありたいと思っている。でなければ、いつまでも優しさを腕で抱えていなければならず、相手を受け入れるために手を広げて優しさが零れ落ちてしまってはかなわない。そしてもしそうなれたら優しさ自体なくなる。優しさといっているうちは、優しくしていない何かが存在していることになる。

 

 

 

一人で死ぬべきかどうかは真に問うべき問題ではない。あえて問うてみるならば、犯罪者に対して自己責任論を押し付けるのは無責任である。犯人にのみ事件の原因があると言っているようで、荒唐無稽も甚だしく不愉快極まりない。それは被害者の近親関係にあたる者の感情論であるべきで、特に世に影響力を持ちうる人間がそんな短絡的で貧相な発想をするべきでない。この世に無関係な人、物、事などない。すべてが同じ世の上に存在する以上、誰かの行動は自分の未来をも作っているのである。

 

人間に限らず、この世は全て繋がり互いに影響を与えながら回っている。これは難しい話でも宗教でもなく、簡単なことである。地球の裏側のある地域の貧困は飽食の国、日本と深くかかわっている。物欲の世界がそんな単純なことすら見えなくさせてしまった。物欲とは短期的な世界のことで、いかにして迅速に満たされるかを追求する科学のエネルギー源である。しかしそれは無理だということを科学は知っている。知らないふりをするのは人間の方で、我々はいつの時代も都合の悪いことには目を伏せてきた。だがもう限界である。そのツケをどのような形で払うことになるか。人間が滅ぶのは間違いないが、そのプロセスとして食糧難、感染症、気候変動、核戦争などと考えるも、それらにしたって根っこで繋がっており、原因は同じくしてひとつである。

 

それにしても世の中というのはとても短気になってしまった。社会が急進的かつ急変的グローバリズムの風を帆に受けるなら、そこに生きる我々も短い間に変化を繰り返し適応し続けなければならないが、人というのは都合よく変容できるものではない。結局適応できる人間だけを取り込む構造ができあがり、彼らに即した世界はさらに分化を極める。適応するのに必要なのは自分以外の物事に思いを寄せないことであり、本来複雑に関係し合う世界と関わっていないつもりになるのがこの世を生きる術である。この物欲の世界で物欲に囚われないのは辛い生き方でしかない。贅沢を得るために他の誰かを貪っていることに気付いてしまったら己の行為全てに葛藤を覚えるだけである。

 

 

 

感情だけで綴ったのでかなりまとまっていない。だが要するに、私は世にいら立っている。