刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

農業の新たなモデル

農業に限らないが、仕事を続ければ続けるほど金がかかる仕組みが存在する。

自動車メーカーが驚くほど農業機械はあえて脆く設計されており、農家は仕事を続けるために修理と購入に出費し続けることになったり、と。



私は金をたくさん稼がなければいけない、そうでなければ日々を暮らしていけない、という固定観念を打壊し、稼ぎは少なくても生活ができる、というモデルを作ろうと思っている。そしてそれは可能である。


そのために「削ぎ落とし」を行っていく。

農機は削ぎ落とせる。山のように作物を作る必要はないので、人の手で作業をすればいい。つまり機械の購入費も燃料費、維持費も必要ない。人手が必要なら地域の横の繋がりに頼る。そのために普段から信頼関係を築いておく。人に頼る、頼られるの関係は、現代ではどこかいけないことのような見向きがあるが、それこそ共同体の魅力、醍醐味ではないだろうか。

食料自給率については、一人の農家が多くの作物を作るのではなく、多くの農家が細々とでも自足分の余剰を市場に売り出していく方が大きな自給率の向上に繋がる。そのために農家を増やす方法とかいろいろ思うことがあるがこの稿の主旨ではないので省く。


化成肥料は要らない。大事なのは養分を継ぎ足していくことではなく、土壌が自ずと醸成していくことで、我々はその手伝いをするにすぎない。お手伝い程度の肥料は自作できるし、材料は身の回りだけでもたくさんある。現行の過剰な肥料投与は出来上がる作物のためであり、土にとっては迷惑でしかない。それに土だけでなく水質汚染、果てにはより全体的な環境破壊にもなる。


農薬も減らせる。あえて「要らない」と言わないのはこの稿がオーガニックを主眼に置いているものではないためである。
歴史的に農薬が果たしてきた役割はとても大きく、それゆえに巨大な信仰と権威を持ってしまった。

要は使い方である。
例えば健康な人間が風邪を引いていないのに風邪薬を飲むだろうか。あるいは風が治った後も風邪薬を引き続き飲む人がいるだろうか。
土も作物も同じで、農薬の使用頻度やタイミングを誤れば、本来の健康状態を害することになる。

さらに現代では作物の脇に生える草(雑草という表現は嫌いである。雑な生物などこの世に存在しない)をピンポイントで殺してしまう農薬がある。自分に都合の悪いものだけを手っ取り早く取り除いてしまおうとするその思想が、農薬よりも恐ろしいと私は思う。そしてそれはちょうど新政党の党首の狂気染みた発想と通じるものがある。あるいはそれが現代の欲しがっている思想なのかもしれないが。

脱線したが、農薬の適当な使用で量も経費も減らせる。そして適当な使用がなされていないという事実を暗に仄めかしていることにも気付いてもらいたい。実際に日本各地でその「蛮行」を幾度となく目の当たりにしている。薬の希釈基準など何の意味もない。使うのは人だ。



農機、化肥、農薬を削ぎ落とすだけでどれほど出費を減らせることか。
ちなみに人件費は「有意義な出費」と考えていただきたい。人が本であり、金は本ではない。それに人と仕事を結びつける媒体は、必ずしも金であるわけではない。

当然収入は減るが、六次産業化を図ることで「二次収入」を得ることができる。それも複数農家の協同的六次化が望ましい。
加工品はもっぱら保存性の高い乾燥野菜や瓶詰めのジャム、ジュース、漬け物など。

現代では作物に「不良品」というものが存在するが、本来そんなものはない。それでも売れないものなら加工品に回せばよい。突き詰めて無駄という発想そのものを捨てるのである。


もちろん手間はかかる、時間もたくさん使う。

だがこうして時間をたっぷりかけているうちに、仏教でいうところの「知足」に至ることができるのではないだろうか。
本来の生物としての人間の時間感覚に寄り添おうとすることであらゆる物事の繋がりを感じ、その中で生きるためには程よくバランスをとる必要があるということに気づく、それを儒教では「中庸」という。

動植物たちがそうであるように生きるために必要な「程よさ」を得る、すなわち分を弁えることで世の万物がバランスを取り合い繋がり合える。そこを超えてしまえば、概して均衡だった世界が過ぎ足るものと及ばざるものの世界になってしまう。どこかの金持ちが金持ちであるためにどこかに貧困を生み出すように。今の世界がそうであるように。