刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

迷走の果てに待ち受ける責任

齢30というのは想像よりも身にのしかかってくる。
何がこれほど重みを加えているのか、という問いに対し「責任」という答えを導き出すのに時間は必要なかった。

私は30年間の人生に対して責任をとらなければならない。

これが20代なら「まだまだこれからだ」と言う言葉に周りも期待しよう。
だが30以降では気力次第でそれが言えても周りが拒み始める。
私自身、我が人生を拒みかけているのだ。

元より後悔しかしない生き方を選ばずにはいられないようなのだが、細かく振り返っていくと私が捨ててきたものはあまりにも多く、貴い。
人に差し伸べられた手や、棚から出たぼた餅のようなチャンス、やりがいを感じた仕事、そして眺めずにはいられなかった過ぎるだけの時間。

捨ててなお目に見えるのに手の届かなくなった「ゴミ」たちが、私の心を捕らえて放さないのだ。
囚われた身というのはこれほど重く、融通がきかないものか。


私ほど身勝手に人生を歩んでおきながら後悔しかしていないとは、一体他の誰が理解を示せようか。
ただ恥を忍んでひとつ言わせてもらうなら、本人としてはその歩みの中で痛ましいほど社会の「公益」とは何かを考えてきた。我々はどうあるべきか、人とは、世界とは何かを洞察した先に社会があり、そこに弱者も何もない本当の「公益」を見出だしたかった。
恥を重ねるようだが、私のその思想自体は尊いものだったと自負したい。
ゆえに必ずしも身軽であったわけではなく、その思考自体が重荷になるほど多くの矛盾を抱えながら歩いてきた。

だが、その思想に追随しうる行動が伴わない。

原因は私自身が礎石となりえるほどの不動たる自己が確立されておらず、その未熟さゆえに知行不一致の愚行を繰り返す。
古今東西無双の愚である。

私は何者でもない(一元論的意味ではない)、何もできないし、何もしていない、空っぽである。
一一それが、社会をして、この私を30たらしめる全てだ。

それでもなお、愚かにも公益とは何かを本質から洞察することを諦めないのであれば、私は30歳として新たな行動の指針を模索せねばならない。

ひたすら一人で苦しみ悩み続けながら行動したこと全てに結果は伴わなかったが、それでも今なお世界に踏みにじられた全ての優しさや誠実から目を背けられないのなら、私はこの人生の当事者として責任をとらなければならない。
そこからしか現在を結ぶ過去と未来を繋げることはできず、つまり私の30歳を歩き始められないのではないか。


もう思想だけを追う結末になるのは絶対に避けるべきだ。
だから、思想を伴う行動をする「覚悟」を、「知行合一」の精神を遅蒔きながら我が身に修めるところとするものである。

その手段を、站樁功に委ねてみようか。