刻雲録

言霊の幸う国で、言葉が見せる風景を感じる

旅の共有の前に

最近になって初めて、資料館の類いにおいて館内撮影が許されていることを知った。

無論、施設側としては暗黙の了解という体であろうし、明確に禁止としているところもある。
理由は様々だろうが、フラッシュで資料を痛めないなどといった配慮を前提に撮影が許可されると、記憶の定着を筆記のみに頼る私などにとっては非常にありがたい。



さて、このブログにて私は旅を共有したくなった。


いや、せねばならない。

過小でも誇大でもなく、私のような一念のもと旅を続ける人間など現代はおろか過去にもそうはいなかったと思っている。

だから前例がないために私は旅の手法を自ら考案せねばならなかった。

そしてほとんど進歩のなかったこの6年を経て、ようやく歩みの中から物事の根元を足の裏で読む感覚、「足でする読書」を徐々に掴み始めた。

しかしまだ先人の残した資料に頼る割合が大きく、木を見て森の奥底を知り、森を見て木の根に気付くような、いわば山川草木に我々と同じ仏性を感じるほどの智慧と呼ぶべき洞察、眼力には到底及ぶものではない。

だがその愚直に旅路を歩む姿を世間に晒すつもりで著述することで自己を客観的に整理し、考え方や捉え方に新たな光明の差し込む余地を多少は期待している。



共有したいとは言ったが、理解までは求めない。

自己を他者や周囲の環境から見出だすばかりの昨今、己すら理解しようとせず、どうして他人のことがわかるだろうか。

あくまで私のための共有だ。が、この旅は「公益」という到達点を既に有している。

私がすべきは点を結ぶ線を引くことである。

その方法を、旅を振り返りながら改めて考えてみたい。




ここで一つ断っておくべきは、私にとって旅は目的ではないということだ。

旅だけでなく、私の行い全ては手段でしかない。

それは文明に生きる人間として誠に不幸なことであり、この10年間私を苦しめた全てと言っても過言でない。


世の旅人たちのように旅に埋もれ、旅を愛すればどれだけの私を救うことができたか。

あるいは道すがら愛した人と新たな道を共にしたら、どれほど私は救われただろうか。

いや、幾度となく愛の呼ぶ方へと向かいはしたが、それはただの逃避行でしかないと心は叫び、結局どちらの声にも応えぬまま徒に時を浪費した過ちの日々が我が覚悟の程を物語っている。


私が24歳の頃、四国遍路をしながら思っていたのは、物事の原理を捉えるために旅という手段を選ぶ必要はないということだ。

立志の時点で気付いていた。

私の得たいものはどこにいても得られるということを。

それでいて旅をし続けたのは、この世から逃げ続けるためであった。

初めから気付いていたこの世界と私に、私は向き合う覚悟がなかった。

覚悟がないから人を誠に愛することもできず、徒に傷つけてばかりだった。

後悔ばかりなのは、覚悟がないからだ。


愛すべき人がいなくなったから私は孤独なのだ、とはもう言わせない。

孤独を無意識に勘違いしているうちは覚悟など持てやしないだろう。




ーーと、私はこのように恥を綴ることでしか前進する術を知らない。

もう少し器用に立ち回れるとは思うが、これでも私なりにけじめをつけている気もするので致し方がない。


ただ、この稿を書き上げるだけで軽く4時間を超えている。

一筆入魂と言えば聞こえはいいが、これから稿の数をこなすつもりなら身が持たないし、時間も足りない。

内容を薄めてもいいから、もっと力の抜けた文を書きたいものだ。

月下美人

海のような命の深淵に

置き捨てられた永遠を

一筋の光が照らし出す

月は今宵も寂夜を抉る

愛しい君の幻影が

月の下に輪郭を晒す

取り戻せぬ時の代わりに

在りし日々が静寂(しじま)にさざめく

悔いも嘆きも月の下に

こぼれ落ちては夢の跡

微かな逢瀬の残り香を

ひしと抱いた月下美人

道を失くした花の行方を

明日も照らしてくれるのか

流れるがままの旅先で

ふと開きませ月下美人

あの夏の日は二度と来ない

愛し君よ月下美人

コロナ禍

書こうと思い続けて後回しにしてきた題材を、そろそろ殴り書いてみようと思う。


なぜ後回しにしてきたか。

私の顕著な性格に後回し癖があることとは別に、コロナ禍に関して感情的にならざるを得ない心境が常に私を内から煽るため、理性的な文章にならないことを危惧したためでもある。


結論を言えば、コロナ禍は人災である。


そもそもウイルスは国内流入すら防げた。

中国、武漢で感染力の高いウイルスが発生したとの情報は、日本国内で感染が見つかる1~2カ月前から世界発信されていた。

ただ、時期的に中国では春節を迎え、中国富裕層恒例の期限付き民族大移動は待ったなしで世界を駆け巡り、その経済力を当てにする各国は過去のパンデミックを忘却の彼方へ追いやることでチャイナマネーを甘受した。

そして新型コロナウイルスは、アジア系への差別と共に世界へ瞬く間に広まった。


日本に限ればオリンピックを年内に控えていたこともあり、外国人の受け入れ制限などしようものならせっかくのオリンピックマネーに何かしらのケチがつけられかねないとの憶測から、島国であることのメリットを何も活かさず感染を容易に受け入れた。


さらには変異株なる感染力が従来より強いものがインドなどで見つかり、まだ国内で発見されていなかった頃、ここで完全に外国人の受け入れを止めておけばよかったものを菅総理はビジネスマンに限り入国を許可すると明言した。

私は耳を疑った。

ここにきてまだそんな世迷い言を平然と言えるのか、と。

そして案の定、インド株は徹底的に水面下で取り押さえると嘯いた政府の股下をすり抜け、現在絶賛拡大中である。

明らかな人災ではないか。

なぜ菅総理は責任をとらないのか。
そもそもこの件について責任追及の世論が弱すぎるのもおかしい。

これら無責任体質は安倍前首相からの悪癖であるが、それを見逃す国民側にもまた無責任は蔓延しており、そのために責任というものへの感覚が鈍くなっているのかもしれない。


ここまでが第一の失態、文字通り水際での感染者の対処である。

単純な話、島国ならば海外から来日する人の流れを止めてやればよいのだ。

帰国する日本人や日本国籍所有者など特例の範囲を絞って認め、且つ徹底した検査と隔離を経て入国を許可するような仕組みはできたはずである(実際に行っていたザルの如き水際対策は論外である)。

これはできなかったのではなく、しなかったのだ。

日本の政治家と大企業との癒着はもっと問題にすべきである。

一面ではコロナ禍初期において外国人らが来日できなくなると営利的に困る資本家たちと彼らにおんぶにだっこの政治家が、後先を見通すこともできない幼稚な脳みそで目先の利益に走り、大胆な入国制限をしなかったものと見る。

観光業協会の会長でもある自民党、二階幹事長という怪物は自身のためにコロナ禍においてGotoトラベルの旗振りをした。このような輩が幹事長を努める政党だ、国民の命など大して考えてはいない。自身の政治生命を長持ちさせるために、あるいは票田と献金の獲得のために、いかに社会的影響力のある団体、組織、企業を自分の背後に据え置けるか、奴らの活動はそのためにあるといっても過言ではない。


第二は不要不急、無為無策の緊急事態宣言である。

宣言自体は時と場合を弁えれば非常に効果的だが、ただ自粛を要請するだけで金銭的援助はほんの10万円給付一回のみだ。そして以後は馬鹿の一つ覚え、現金給付なし自粛要請の乱れうちに終始している。

繰り返せば繰り返すほど、物事は楽な形に変容していく。

薬は服用を繰り返せば効かなくなる。
これは体が慣れてしまうためである。

難しい作業も繰り返せば上手くなり、楽にこなせるようになる。

そして緊急事態宣言を何度も繰り返せば一回目の宣言発令時のような緊張感は薄れ、強制力のない自粛要請を出し続けるのみでは人々はその異常に慣れてしまい、新たな日常となってしまう。


私であれば感染拡大が見られた2020年4月、国民がまだウイルスに対して得体の知れぬ危機感を抱いているうちに1ヶ月間の宣言を出し、外には前述したような国内移入者の入国制限、内には外出自粛と経済活動の全面停止(この時点では国民もコロナ禍慣れしていないため自粛要請でも効果があったと認識しており、さらに後述の政策がコロナ禍への国民意識の後押しをしてくれる)、ただし公務や食、交通などライフライン確保のための業務、そして医療などの最低限必要であろう業種の選別と従事者の感染予防の徹底、さらにウイルスの矢面に晒される業務柄、国から特別手当てなどを拡充させる。
そして国民には1人30~40万円を特別給付し、1ヶ月の間は仕事をせずとも暮らしていける経済的下地を国が作ってみせる。

言わば国民の生活を確実に成り立たせた上での国内ロックダウンである。

給付金の財源など実はいくらでもある。
数ある中の一例だけあげるが、無用で不要のアベノマスクに何百億円を簡単に払ってのけるのだ、誰にも忘れたとは言わせない。
ちなみに私は遂にそのマスクを手に取ることも目にすることもなかった。

それに日本はドルでもユーロでもなく、独自通貨の円だ。

金がなければ国民が必要な分だけ刷ればいい。

そして差し迫った国難下ではまず衣食住を整える。そのためには自国の一次産業が国を養えるほどの活動規模でなければならない。

我が国の現状は全くそうではない。食糧自給率が40%以下なのはありえないことだ。外国から残りの分をいただけなくなったらどうするつもりなのか、この国の民に聞いて回らねばならないが、その上で食糧の1/3が廃棄されている事実も鑑みると、日本は上も下も思考力と想像力に欠けた愚かな民族と思われて然るべきである。

また数字的には経済力で日本に劣る国々が、40万円ほどの給付金を何度か出している。
だが麻生大臣などは給付金が貯金に回っては意味がないと意味不明な発言をしている。一体どこに視線を向けた発言なのか。高所得者ならそうであろうが、給付金を課税対象にして確定申告の際に回収すればいいし、経済的弱者にとっては結果貯金したとしても、それは明日以降を生きるために必要なことではないか。

経済弱者の目線に立てるような余裕もゆとりもなく何が経済大国か、馬鹿馬鹿しい。


それに経済が回らなくなることを危惧する意見があるが、長期的に見れば現状のように感染者数も減らず、飲食店などに無意味な時短要請をだらだらと繰り返し徒に民衆の暮らしを圧迫するより1月だけ社会全体で我慢をした後、段階的に経済を回していく方がリバウンドも少なく社会の回復も早く済み、結果的に傷が浅くすむ筈である。

そしてだらだらとであっても経済活動したいのは概して大企業側の言い分でもある。

営利の質を海外に頼る傾向の大きい昨今の企業は見返りが大きい分、1分の操業停止が数億円の損失に繋がることもあるのだ。
ゆえに短期的且つ短絡的な経済活動が必然となってしまうのは、肥大しすぎた組織の維持が大変なこと、あるいはグローバリズム脆弱性を暗に示す重要なメッセージのようにも思える。


第三はオリンピックの呪縛である。

これさえなければさすがの無能政府でももう少し頼り甲斐があったかもしれない、と毛一本分くらいは思わなくもない。

ただそのオリンピックも国が誘致した。

安倍前首相の「原発事故はアンダーコントロールしている」との謎の言い回しで大嘘をぶちかまし、手に入れた五輪利権。

よくよく考えてみてほしい、どれほどの魑魅魍魎たちがその利権に貪りついているのかを。

その数と組織の規模がそのまま自民党の権力の大きさとして表れていると思っても差し支えないだろう。


コロナ禍以降、政府が蜜月の民間企業に対し、さながら火事場泥棒の如く社会情勢を出汁に使い利益を流していた事実が湯水のように沸いて上がった。

現実的には「事実」ではなく「疑惑」ということになっているのだろうが、そもそもモリカケ問題から桜を見る会公文書偽造など本来であれば疑惑であろうがそんな懸念が出る時点で権威の失墜しかねない事件が有耶無耶にされたままなのは、改めて日本の低俗さを窺い知る思いだ。

そのような疑惑をも有耶無耶にする力は、やはり政権に纏わりつく魑魅魍魎たちによるものなのだろう。

権力という言葉は仮ものの力という意味なので、その通り国や政党の力ではなく、魑魅魍魎たちから与えられた力である。


そのような国の背後が欲する限り、決してオリンピックを手放すような真似はしない。



しかし世の中は確かに複雑なのだが、その縦構造自体は実に単純であり、どの世界にも見られるただのパワーバランスでしかなく、俗にあっては個人も組織も何かしらの力を誇示し弱者を威圧する小物ばかりで辟易とする。

えらいこっちゃ

数日前にトイレを借りるためだけに入ったバッティングセンター内のゲームコーナーに握力と背筋力を測るゲームがあったので、なんとなしにやってみた。

握力は左81kg、右70kg


興奮した。

左は4年前より10kgも上がっている。


とはいえゲーセンの測定器など、そもそもどこまで正確か疑わしいものであるが。


続いて背筋力、201kg

平均を40kgも超えている。


図らずも興奮した。


だがこの測定中に嫌な音と感覚を覚えた。

背骨がみちみちと挟まれて潰されるような感じであった。

そのときは嫌な予感がしたので引いていたレバーをすぐ放してなんともなかったが、今日になって大したことのない動きに背骨が響き、呼吸がしにくくなるほど痛めてしまった。


あのままレバーを引き続けていればもっと高記録だったかもしれないが、その代償に車椅子生活を送ることになっていたかもしれない。

もっとも、車中泊生活がそろそろ3カ月となり、まともな姿勢で寝られない日々に体が悲鳴をあげていたのかもしれない。

どちらにせよ、私は甚だ満身創痍である。


ゆっくり、まともに休日を送りたい。

私は今を流れているだけである

生きること、死ぬことは、それぞれの人格を全うすることであると以前書いた。


日々の暮らしの中で、あるいは生計を立てる生業の中で人格はいつだって表現される。

日銭暮らしであろうが、生きるために汚れていこうが、望まぬ営みに嫌気が差そうが我々はその姿勢に我を見る。

隠すことなどできやしない。

それが「私」というものだ。

否定するもしないも「私」は変わらない。

ただ「今」を流れているだけである。

明日も、来年も、一分後だって「今」を流れるだけなのだ。

人格はいつも「今」に表れる。

我々に許されているのは、せいぜい今を愛することくらいではないだろうか。



そう書いていて、すっと胸が空くような感覚を得た。

そうか、今を心から受け入れる、か。


なんと妙な男だろう。

我が思想の「芯」を今やっと食ったといったところか。

昨日今日の思いつきではない積年の思想が実のところ今の今まで空論であったことが白日のもとに晒されてしまった。


なんとも嬉しい恥である。



今が明るく見えてくると、この体調の悪さも些細なことのように思えてくる。

今を生きるのに体の具合は大した問題ではないようだ。

明日や将来を生の前提にしているから体調が気になってしまう。


全てにおいて同じことが言えるのだろう。

そして初めて人格を表現することに迷いも消え失せる。


何をしたって構わないのだ。

躓き転んでも肯定の名のもとに私は道の上に在り続けられる。


道のりが険しく先が見えないことの不安、そこに立ち向かう勇気、実に唾棄すべき妄言である。

苦しい道を逃げずに進んできた英雄たちの冒険譚、誠にくだらぬ妄想だ。

そんなつまらぬ戯れ言を愛でることも人の可愛らしさであり、人としての豊かさでもある。

だが私はそのような万人受けする人格を表現する気は全く失せた。

道の上にいる、そう感じられる。私はそれだけで充分である。

転んで膝を擦りむこうが、逃げて恥をさらそうが、それも私なりの人格の表れにすぎない。

だが人格に貴賤はない。

自らを貴く思うことの賤しさ、それは誰もが自らの道のりを素直に振り返りさえすればわかることであり、どちらに傾くこともない自身の「尊さ」に初めて気付いたとき、同じように貴賤の存在しない他者の「尊さ」が見えてくる。


とはいえ、人の世は往々にして比べ合いや差別をもってなんとか自我を保とうとする。

そうした世界にあって、周りから奇異な人間だと避けられるくらいが私らしいのだ。



あぁ、この心地よさは一体どのくらい本物なのか。

生も死も今に感じられるこの境地、寝て覚めた後も、明日の日銭暮らしのなかでも再び得られるのだろうか。

時には徒然なるままに

体調の悪化が著しい。

仕事中は日に数回ほど意識が飛び、ナルコレプシーかと疑いたくなるほど病的に眠い。

そんな中トラックで狭く交通量の多い農道を日長運転するのは正気ではないだろう。合間に畑作業も挟みつつ、である。

だが今年の早すぎる梅雨の到来に懐事情は湿り気を拭いきれず、貧乏暇なしを邁進する以外に道はない。


素直に人生の危機を感じている。

正直ブログを書く気力、体力ともに仕事の後では尽き果ててしまうのだが、生きた証を残すために少しでも言葉を捻り出しておく次第である。


散々人生と世界に迷い、ついに迷いの果てにさえ達せられなくとも、それもまた人の一生らしいではないか。

良いこともあれば嫌なこともあり、上り坂があれば下り坂もあると人は言うが、その比率は五分五分であるとは限らず人間的な感覚では推し測れないものがある。

我が身に降りかかる状況を二元的に捉えるのもいいだろう。

現状を正しく把握するために嘆いたり喜んだりすることも必要だ。

しかしそれが負の連鎖に繋がること甚だしきところに私は人間の業を垣間見るのである。

負の感情がさらなる負を呼び込み、抜け出すこと容易ならざる事実は多くの人が経験しているが、喜びや楽しみが新たな負の連鎖の一助となることを多くの人は知らないし、知ろうともしない。

ポジティブな状況はいつまでも続かない。逆も然りだが、人は自分が望む理想の状況にするため、あるいは営み続けるために苦行の道を進み続けようとする。

それを人間社会は称賛すべき努力と安易に認めがちで、一体いつになればその努力が報われるのかわからない人々の中にはついに死ぬまで報われなかった者も大勢いる。

努力の方法、方向が間違っていたかもしれない、助けてくれる人や環境がなかっただけかもしれない。

原因など推察し尽くせるものではないのにこの社会はどこか努力という言葉のみを有用にしたがる。

環境のせいにするなとか、周りのせいにするなとか、劣悪な環境を跳ね除け乾坤一擲を成し遂げた一握りほどの英雄たちを賛美し続けた歴史がより強者と弱者を隔てていく。

また一時的に強者たりえたとしてもそれを持続させたいと願ってしまったために身を滅ぼした者の多さも、ただのワイドショーネタではなく人の訓示として見る向きも必要ではないか。


確かに隣の芝生が青く見えるのは私にとっても事実だが、それは人間同士にのみ適用される比べ合いの結果に過ぎない。加えて比べる対象の味をそれなりに知っている必要もある。

私はこの比べ合いについてとことん言及しているのが仏教ではないかとも思っている。

他の宗教では原始思想を除いて少なからず比べ合う対象を欲している傾向があると見えるが、仏教において比べることは本質的に無用であると説く。

人は性悪の身として生まれ落ちるゆえにその一生を良き人として生きるように諭すキリスト教や、名そのものが平和を意味するイスラム教は平和を自利的に希求するあまり、自らの平和を勝ち取るために他を排除する理論の暴走に度々振り回されている。

仏教は性善も性悪もなく、また平和に越したことはないがその言葉自体に執着することもない。

つまるところ、仏教は人間のみを説く教えではない。
あらゆるもの全ては皆同じであり、姿形、性質に違いはあれど全ては繋がっており、ゆえに1つであるというのが「色即是空」の思想である。

あらゆる全てが備えている「仏性」というものがあるが、石ころや草花ひとつひとつに正悪など存在しないように、仏性を性善説として考えるべきではない。

すなわち「山川草木悉皆成仏」の世において正悪の是非も殺生の如何も本質的に存在しない。

あるのは「知足」を弁えた「分相応」な生き物の営みだけである。

例えば野生の動物たちは、自然のなかにあっては枯渇するほど食糧を貪ったりはしない。

それは意図的でなく長い月日をかけて築き上げた食物連鎖の絶妙な構造がそうさせており、土地に適応した種が食うも食われるも互いの維持に寄与し、あるいは危機に晒されれば進化を経て改めて適応するように程よく均衡を取り合っていることが結果としてピラミッド型で示される図に表れている。

自然界は食い争いを続けているように見えるが、それは個人にこだわる人間の見解にすぎない。

個体ではなく種として生きる生物たちは食われることも生きることであり、ひいては種が生きることになり、大風呂敷を広げればあらゆるもの全ての繋がりのなかに戻っていき、また別の姿の「仏」として顕現するのである。

個は滅びても種は滅びず、また種が滅びようと生命は滅びず。

この世に生を受けたと言うが我々は遥か太古から紡がれてきた命の「今」であり、また今を生きることは死後また別の姿で現れることの因果を約束するものである。

つまり過去も未来も「今」に帰結する。

今を生きるとは、過去も未来も一元的に生きることである。


その「真実」を万物に見出だそうとする試みが仏教ではないだろうか。


ーーと、この続きも書いたが全くまとまらないので限界のようだ。

徒然なるままに書いたのでそもそもまとまっていないのだが、気が向いたら続きになりそうな稿を書いてみよう。

明日

 咥えたたばこに血がついてた

 そのわけを知ることも叶わない

 口の中は鉄の臭いで充たされて

 俺は明日のことを考えてた

 この頃は振り返ることもしない

 日毎に生きることに汚れを感じる

 それでも何かにしがみつこうとしている

 俺はただ安らかに寝たいだけなのに

 己の心に目を伏せるなんて

 笑い声から遠ざかるなんて

 どうしたの

 俺がわからなくなっていく

 明日俺は何してる


 歩く度に頭が痛い

 そのわけはきっとわかってる

 わかってるけど歩くことはやめない

 走ることはないけど

 壁にぶつかることもなければ

 何かに躓くこともないから

 高く反り立つ崖を探したけど

 失うものがないと気付く

 何もないのがとても辛くて

 何かがあれば物足りなくなり

 それが人間なのか

 それが人間なのか

 夢追い人に目を伏せるなんて

 愛すべき人から遠ざかるなんて

 どうしたの

 俺がわからなくなっていく

 明日俺は何してる